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Phantasmagoria2222 blog

社会の事などについて書いています

社会運動と自己愛

このあいだ書いた、ブルーハーツとヒップホップについての文章の補足。

反差別活動をしているラッパーにECDという人がいる。Twitter等をやっている人はTL上で見かける事があると思う。

ECD(@ecdecdecd)
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そのECD氏の自伝的書籍に『失点イン・ザ・パーク』というものがあるのだが、これはSEALDs~ヒップホップのラインではなく、ドブネズミの半生を綴ったものである。

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↓の連載に詳しいが、ECD氏はラッパーになる前にはアングラ演劇やマイナーなロックの近くにいた人である。
ECD『ホームシック』~シー ンきってのアウトサイダーが辿った道程
http://tower.jp/article/series/2008/04/03/100047337

『失点イン・ザ・パーク』では、PUBLIC ENEMYとツアーを回ったエピソード、若き日の山崎春美との交流などの話が出て来るので、音楽好きな人ならECD氏のファンでなくても楽しめるだろう。

ただ、自分がこの『失点イン・ザ・パーク』から受ける印象は「自己愛の無さ」なのである。
例えば、精神病院に入院していた事が書かれている、また他には37歳まで童貞であった事が書かれている。これらが、あたかも他人事のように語られているのである。
自己卑下や自虐などのサブカル的な自己愛が存在しない。

ECD氏は、イラク反戦デモのときはアナーキストを自称していたが、しばき隊~SEALDsのラインへと活動が変化するにつれて、意図的にアナーキストを辞めたとインタビューで語っていた。
多くの活動家が政治的アイデンティティに縛られる中、ECD氏が簡単にアナーキストを辞められたのは良くも悪くも自己愛が無かったからだと考えられる。

私個人としては、アナーキストかつアルコール依存症だった時代の頽廃的作風のECD氏の作品を最も好むのである(アートとして見た場合)のだが、未来に視野を移した近年の作品も全て名作であると思っている。

ブラックミュージックの新旧(変わり行く同じもの)

ピーター・バラカンさんがHIP-HOPを好まないという話を以前Twitterで書いた。
そのときは、HIP-HOPの性的表現や、ギャングスタラップの暴力性が原因という解釈がされたのだが、自分としてもどうも上手く説明出来なかったという思いがあった。
また、ピーター・バラカンさんがテクノやハウスなどの基本インストであるブラックミュージックについてどう考えているかは不明である。

かなり前だが、『文化系のためのヒップホップ入門』という本があった。ここにヒントらしきものを発見した。また、『ブラック・マシン・ミュージック』という本では、「ステレオタイプな善良な黒人」も「ストリートのリアルを表現する黒人」のどちらの事も批判的に語るテクノアーティストが登場する事もあり、現代のブラックミュージックを単純化して語る事はかなり難しい。
公民権運動時代のアフリカン・アメリカンのように、一定のステレオタイプが無くなってしまったというのも関係しているだろう。

90年代中盤辺りに、ヒップホップ・ソウルと呼ばれるタイプのR&Bが登場した。
これは、伝統的スタイルのソウルやR&Bとは違い、反復構造やループ構造のビートの上に歌を乗せたスタイルである。

そのため、きちんとした展開を持ったブラックミュージックである、オーティス・レディングサム・クック等をブラックミュージックの規準にする人からは評判が悪い。
ヒップホップ・ソウルのアーティストは、伝統的スタイルのソウルシンガーが「メロディ」を唄うようには歌っていない。
ループの上で、ジャズのインプロ的にメロディを歌うのである。
「ヒップホップシンギング」と呼ばれていた事もあったという。

現行のブラックミュージックをパクっているJ-POPは、ヒップホップソウルの構造を無視した状態で、ヒップホップソウルのイメージだけを引用しているため、古典的ソウルを劣化させたような音楽になってしまっている(EXILEなど)。この点K-POPは世界標準の構造(ループ、反復)を取り入れる事に成功していると思う。
日本人がゴミとして棄てたROLANDの電子楽器を使用して、デトロイトやシカゴの黒人達がクリエイティヴな音楽を創造したと知ったときは恥ずかしくなったものである(その上またそれをパクる日本人…)。

ちなみに現代のソウルシンガーでも、伝統的スタイルのソウル、R&Bを作っているミュージシャンは存在するのだが、あくまでアンダーグラウンドな存在である。

『文化系のためのヒップホップ入門』で、もう一つ興味深かった記述があった。
黒人音楽にはブルース、JAZZ 、ヒップホップなどの「芸名」を使用するジャンルと、ソウルやR&Bなど、本名で勝負するタイプに別れるのではないか?というのである。

前者は「芸名」を使用して、同業者と競う側面がある。
後者はあくまでアートとして単独に完結することを目指す傾向がある。
例えば、特定のJAZZミュージシャンだけを聴くジャズファンというのは珍しいのではないだろうか。ビバップ、モードなどのルール上で誰が一番センスがあるのか競うのが重要なため、いろいろなミュージシャンを聴き比べなくてはならない。
一方、ソウル、R&Bではマーヴィン・ゲイカーティス・メイフィールドなど、それだけを聴くという人は沢山いるだろう。

ピーター・バラカンさんの話に戻ると、西欧近代リベラルという価値観を持つバラカンさんからすると、「競う音楽」であるHIP-HOPは、アートとしては不徹底に見えるのではないかと思われる。
HIP-HOPリスナーが好む「競う」というルールの性質が、バラカンさんにとっては不自由や無個性に見えるのではないか。ここが埋めがたい溝なのだと思う。
真の近代主義者であるピーター・バラカンさんからすると、音楽は魂の表現なのだと思われる。一方、ポストモダニストであるDJ文化圏の人間からすると、音楽は「サンプル」と思われているのではないだろうか。

ここまで長々書いてきたが、かなりブラックミュージックの歴史を単純化しすぎてしまったとも思っている。
例えば、テクノやハウスもブラックミュージックである。『ブラック・マシン・ミュージック』に登場するテクノアーティスト達は、電子音楽の中に自分達のソウルが込められていると主張する。
アンダーグラウンドのテクノアーティストはHIP-HOPやメジャーの音楽を批判的に語るため、更にややこしい事になる。

良く考えると、アフリカン・アメリカンがルーツでない音楽はクラシック位のものではないだろうか。
ブルース評論家のリロイ・ジョーンズ(アミリ・バラカ)は、著書『ブルース・ピープル』の中で、ブラックミュージックの本質を「変わり行く同じもの」と表現した。
社会批判とは無縁なタイプのブラックミュージックであっても、「政治性」は必ず付きまとう。
このような事を考えていると、「音楽に政治を持ち込むな」という日本人の「政治性」が浮き彫りになるのであった。

ここ最近の日本語ラップの動向‐リアリズムと享楽と様式美

かねてからHIP-HOPを階級闘争として読み替えることに抵抗があった。
政治的であること自体は間違っているとは思わないし積極的にやるべきだと思うが、勝手に「HIP-HOPなら人種差別に反対するべきだ」という先入観を持った意見に反発があるのである。
本場アメリカでも「人種差別に反対する闘士」としてのラッパーは比率から言うとかなり少ない。
自分としては、敢えて政治的メッセージを発さなかったとしても、存在自体がメッセージになっているようなラッパーが理想である。

下に貼った動画のうち、BAD HOPとKOHHに関しては「日本の貧困」と結び付けて語られていることが多いように思っている。
しかし最近では「日本の貧困」と結び付けて語られる日本語ラップに対する反動のような存在が既に登場している(念のために言っておくと、どちらがより優れているという話をしたい訳ではない)。


BAD HOP Episode 3 Liberty / T-Pablow & Yellow Pato
www.premiumcyzo.com




KOHH - "貧乏なんて気にしない" Official Video






次にYENTOWNだが、ここには政治的メッセージというものは皆無で、ドラッグについての享楽的なラップがメインである。だが反体制的メッセージがないからといって、YENTOWNのラップを快く思う保守派(悪い意味での保守派)は居ないだろうと思う。ここでは頽廃的なこと、享楽的なことがメッセージになっていると思う。
ただ、新左翼がエロや頽廃的なアングラ藝術を占有していた70年代とは違い、近年では頽廃藝術は右派のものとなっているのが現状なので、これらの表現は注意深く見る必要があるだろう。


Ice Cold City - diZZy, kZm, Junkman (Prod. LISACHRIS & Chaki Zulu)






最後にKANDYTOWNというクルー。ここもまた政治的主張は皆無である。また、日本を含めた世界的なHIP-HOPの流れともかなり断絶がある。ある人がKANDYTOWNの音楽を評して、シティポップの継承者なのではないかという文章を書いていたが、彼らが敢えて政治性を避ける態度を見るとあながち間違っていないと思う。KYANDYTOWNにおいては、クールであること、オシャレであることが日本社会への批評となっていると思う。


IO. DONY JOINT. YOUNG JUJU. feat. KANDYTOWN「All bout me」 / BLACK FILE exclusive MV “NEIGHBORHOOD”



IO "City Never Sleep" (pro. by JASHWON for BCDMG) - Official Video -


あるHip-Hopのネットラジオ番組を聴いていたら、最近の若者はスマートであるという話が出ていた。東京に限った事なのかもしれないが、不良行為を行わない不良(?)が増えているというのだ。Hip-Hop的ファッションをしている若者の中でもヤンキーが減少し、「ただお洒落な人」と「犯罪者」の二極化が進んでいるようである。政府の統計でも少年犯罪は減少傾向にあるようで、この見立ては正しいのではないかと思っている。

長渕剛はネトウヨ的メンタリティじゃなかった

マッチョなパブリックイメージや、自衛隊への慰問ライヴを行っている事などから、長渕剛ネトウヨ的な存在と認識している人が結構多いようである。

かくいう自分も『男たちの大和』以来、戦争を美化するタイプのナショナリストと思っていたのも確かだ。

この考えに少し疑問を持つようになったのは、哲学者の佐々木中氏の著書の中の発言である。
男たちの大和』では、テーマ曲を長渕剛が、エンドロールでの曲をラッパーの般若が歌っているのだが、佐々木中氏は般若のこの曲に関して、よく聴けば戦争を煽るような内容ではないと述べている(佐々木中『アナレクタ2‐この日々を歌い交わす』より)。
映画自体は未見なのでここで断定することは出来ないが、確かに曲だけで判断する限り戦争を讚美する内容で無いことは確かである。

長渕剛と般若は、この映画だけでなく共に曲を作ったり、ライブを行ったりしている。またそれだけではなく私生活でも交流がある。

レイシズム運動の中にも日本語ラップを愛好する人は結構いるのだが、その人達からすらも般若は排外主義的な主張をするラッパーという決め付けがされているので、自分はここで般若の名誉を回復したいと思っている。
ただ、残念なから般若は初期のアルバムでホモフォビア的な内容の歌詞を書いているため、そこは批判しなくてはならない(Hip-Hopカルチャーにおけるホモフォビアの問題はかなり根深いと感じているので、これはこれで文章を書かなくてはならないと感じている)。

自分が、長渕剛ネトウヨではないと本格的に考えるようになったのは、文藝別冊から出版されている『長渕剛‐民衆の怒りと祈りの歌』という本を読んでからである。
ここで長渕剛と作家の柳美里氏が対談しているのだが、長渕は自分の歌が言葉の通じない韓国で歌われていることに対して良い意味でのアジア主義的共感を見出だしている。
長渕剛氏の在日コリアンへの共感は、近代的人権思想に基づくものではなく、福岡時代に家族同然に扱ってくれた在日コリアンコミュニティーへの思いが根底にあるようだ。

そして最近ふと目にしたのがこの動画である。

長渕炎陣その11「日本」について語りあう。最終回

日本というテーマの回にわざわざ在日コリアンと日本人のハーフである般若をゲストに呼び、その中で在日コリアンコミュニティで良くして貰った経験を語る長渕剛
日の丸や君が代より、家族の方が大事だと語る長渕剛
これは、テレビのバラエティなどでは大っぴらに語る事が難しい反レイシズム長渕剛なりに表現しようとした行動なのではないかと感じた。

般若/ 家族feat. KOHH